2023年


ーーー2/7−−−  ターナップ


 
久しぶりにに、カミさんとターナップ(turn-up)なる卓上ゲームを楽しんだ。これは20年以上前に、海外の本に載っていたのを参考にして、自作したものである。それがつい先日、ほこりまみれの状態で発見された。

 台となる板の両サイドに、10本の柱が並んで立ち、柱の間に白点で数を記した木札が配置してある。柱と木札を貫いて真鍮線が通してあるので、木札を回転させることができる。台の中央には楕円形の凹が掘り込まれ、薄いコルク板がはめ込まれている。材種は、台と柱はマカバだが、木札は白点が見易いように、ブラックウォルナットを使っている。

 2ヶのサイコロを振って、出た目の札を裏返す。たとえば出た目が2と4なら、それぞれの札を返す。片方だけではいけない。その代わり、合計した数の札(この場合は6)を返しても良い。目が合わずに裏返せなかったときは、どれでも良いから、返してある札を一枚戻さなければならない。早く全ての札を裏返した方が勝ち。そういうルールである。

 二回勝負をして、二回とも私が勝った。もちろん運だけの勝負であるから、終わった後のわだかまりは何も無い。いずれも、勝敗が着くまで、20分ほどかかった。過去を振り返れば、早い時は数分で決まったこともあったと記憶しているが、今回はうんざりするほど長かった。

 傍目には、老夫婦が暇をつぶし合っているように見えただろう。しかし、こういう遊びは、地味だがけっこう楽しいものである。ハイテク機器に翻弄されているような現代において、人間らしい感性を楽しめると言ったら大袈裟だろうか。

 余談だが、もっと短時間で勝敗がつくようにと、裏返った札を戻さないルールも試みた。当然だが進行は早い。しかし、1の札だけが残ると、その人の負けとなる。サイコロの目がどのように出ても、裏返せないからである。それも可とするなら、この促進ルールを使うのも良いだろう。




ーーー2/14−−− 可愛いくないメダカ


 10年以上前からメダカを飼っている。それ以前は、熱帯魚を飼っていたこともあった。薄青いライトに照らされた水槽の中を泳ぎ回る熱帯魚、その周囲の小石や水草、そして絶えず上昇する泡粒など、それら全体が、例えようのない美しさであった。日常生活のシーンで、これほど美しい物は他に無いと思ったくらいである。しかし、美しさを維持するには、定期的に手入れをしなければならない。それがだんだん面倒になり、2年ほどで止めてしまった。美しさの感動も、その程度のものだったのである。

 メダカは、さほど手が掛からない。手を掛けるほど、美しさの要素が無いとも言える。ただ生きていてくれれば良いという感じ。水槽の掃除など、メダカの姿が見えなくなるほど濁ってからでも遅くはない。

 現在5匹いる。半年前にペットショップで十数匹買ってから、ここまで減った。このたびはだいぶ生存率が低かった。これまで何度も代がわりをしてきた。8年くらい前に、産卵して増えたことがあったが、その後はそういう事も無く、数が減ったら買い足すというのが、代がわりのパターンとなっている。メダカは値段が安いので、購入するのに全く抵抗が無い。

 さて、メダカと言えども、性格の違いのようなものを感じることがある。可愛げがある、ない、あるいは人見知りをする、しない、など。

 現在の5匹はいずれも、私とは少々反りが合わないところがある。なんとなく可愛げが無いのである。餌をあげようと思って、水槽に近づくと、サッと底の方に逃げる。以前飼っていた子らは、私が近づくと「待ってました」とばかりに水面に上がってきたものである。なんで逃げるのだろう? 誰が餌をやっていると思っているのか。餌が自然に空から降ってくるとでも考えているのか。少しは感謝をして、愛想良く立ち回ったらどうか。

 また、奴らは餌を選り好みする。生意気である。私が「メダカさん、ご飯だよー」と優しい言葉を掛けて、サラサラと餌を撒くと、しばらくして底の方から上がってくるのだが、気に入らない餌だと食べない。わざと餌の真下を通過する。臭いを嗅いで、そっぽを向く。一度口に含んでから吐き出す。などの反抗的な態度をとる。餌の賞味期限が切れているので、それが原因かと思い、新たな餌を買って来た。最初の数日は、それをパクパク食べたが、次第にお気に召さなくなってくる。飽きてしまうのだろうか? メダカのくせして。食通ぶっているのか、グルメ・メダカのつもりか。

 小さな水槽の中で暮らしているメダカは、当然のことながら、その環境だけしか知らない。その環境の外には、自分たちが思いもしない、水の無い世界が広がり、そこに何万倍もの大きさの存在(人間)がいて、その存在が餌をくれる。すなわち、自分たちの命はその存在に握られている、ということを、彼らは想像したことも無いだろう。そのメダカたちの、無知蒙昧で、小さく、はかない姿を見ると、反抗的な態度に腹を立てつつも、なんとなく愛おしい気がするのである。それで、餌もやるし、水槽の掃除もしてやるのだ。

 私が信じる宗教の神様は、おそらく同じような気持ちで、空の上から人類を見ているのであろう。




ーーー2/21−−− 煙突掃除


 
薪ストーブの燃え方が悪くなってきた。火の勢いが弱くなっただけでなく、薪をくべるドアを開けると、煙がモクモク出てきて、部屋の中に立ちこめるようになった。これはもう、煙突掃除をするしかない。

 薪ストーブは、冬場の寒い時期は、一日中つけっぱなしである。夜の間も、火を絶やさない。寝る前に薪をくべ、空気孔をギリギリに絞ると、一晩中ブスブスと燃え続ける。翌朝空気孔を開ければ、またチロチロと燃え始める。そこに新たに薪をくべれば、室内はすぐに暖まる。ブスブス燃えているだけでも、多少の暖房効果はある。かなり冷えた朝でも、室温が10度を下回ることは少ない。

 ストーブの火を落として、冷たくなるまで待たなければ、煙突掃除はできない。だから、厳寒期に掃除をするのは、気が進まず、後延ばしにしがちなのだが、今回はもはや限界と感じた。前日の午前中にくべた薪を最後にして、燃やし尽くしたら、翌朝にはストーブは完全に冷たくなっていた。ちなみに室温は4度だった。

 建屋に作り付けられた煙突とストーブの間をつなぐ短管を外して、先端にブラシが付いたワイヤを煙突の下から挿し込み、ゴシゴシやって煙突内部の煤を取り除く。短管の内側も綺麗にする。さらに、ストーブの奥に溜まった煤を取り除く。煙突から落ちた煤が、奥の区画に溜まり、それが増えると、排気がうまく行かなくなるのである。

 もっとも嫌な工程は、短管を外す作業である。1メートルほどの短管が二本繋がっており、その接続部をスライドさせて短くし、ストーブから外すのだが、そこがなかなか動かない。挿しこんであるだけなのだが、内側にタールなどがこびり付いているのだろうか、毎回とてもきつい。短管を両手で掴んで力一杯押し上げ、ギシギシ動かしても、1ミリ程度しか動かない。それを延々と繰り返す。潤滑剤をスプレーしても、目立った効果は無い。

 やっとのことで短管が外れ、体制が整った。ブラシのワイヤーをビニール袋に通し、煙突の下端にくくり付ける。ブラシで落とされた煤は、その袋に溜まるというわけだ。外した短管は、屋外に運び、これもブラシで擦る。室内では、カミさんがストーブ内の煤を除去し、周囲に散らかった煤を掃除機で吸い取っていた。

 掃除が終わり、短管を元に戻す作業にかかったが、これも相当な困難が予想された。さっき縮めた短管を、こんどは伸ばすのだが、簡単に動かないのは、先ほど経験した通り。そこで一計を案じた。スライド部を、外側からヘヤードライヤーで暖めるのである。それにより、内側にこびり付いたタールが軟らかくなって、動きやすくなるかも知れないと言う発想。そんな事で上手く行くかどうか、もとより自信は無い。ダメで元々である。ところが、これが実に功を奏したのであった。タール云々とは別に、外側の管が熱で膨張して、スライドし易くなったのかもしれない。ともかく、気が抜けるほど簡単に、短管は動いてストーブに接続された。

 さて、復旧されたストーブに薪を入れ、意気揚々と点火した。掃除直後の薪ストーブは、ガンガン燃える。夕方が迫り、寒くなってきた時分だったので、思いきり焚いてやろうと意気込んだ。ところがである。なかなか火が点かない。ようやく炎が上がり始めたら、煙がモクモク発生して、ストーブから室内に流れ出した。瞬く間に、室内は煙だらけになった。これは、掃除をする前よりひどい。全く予想に反する出来事であった。

 混乱する頭で思案したところ、これは屋外の煙突の先端部、ブラシで擦れない部分が、何かしらの理由で詰まっているのではないかと思われた。外へ出て、地面から煙突を見上げたら、先端から煙が出ていたが、なんだか様子がおかしい。勢いが無く、にじみ出るようにして流れていた。屋根に上がってその部分を調べようかと思ったが、すでに陽は傾いている。しかも、先日の雪が屋根に残っており、嫌な感じ。不安を抱いて躊躇したが、意を決してトライすることにした。

 屋根まで届く三脚を据え、火ばさみを手にして屋根に上がった。もし詰まっていたら、その場で取り除くつもりである。道具を取りに戻る余裕は無い。屋根の上には、軒先から2メートルほど、5センチほどの厚みで雪が付いている。冷気で固く締まっている雪を、火ばさみで突き崩して前進する。手の平や膝に着いた雪が、鋼板の屋根の上で滑る。なんだか冒険的行為の様相を呈していた。それでもなんとか煙突が立っている部分に到達した。そこで目にした光景は、驚くべきものだった。

 煙突の先端には、丸いお皿を裏返したような傘が、4本の支柱で取り付けられている。その傘と、煙突のパイプの上端との間に数センチの隙間があり、そこから煙が出るようになっている。その隙間が、ほぼ全周に渡り、固化した煤のような異物で覆われていた。一部に穴が開いており、そこから煙がにじみ出していた。こんなことが有り得るのかと、目を疑うような光景であった。早速手にした火ばさみを使って、異物の除去に取り掛かった。それほど硬いものではなく、突けばボロボロと崩れ落ちた。しばらくすると家の中のカミさんが「急に良く燃えだしたわよ」と叫ぶのが聞こえた。これで問題は解決した。後はスリップに注意しながら、屋根から降りるだけである。

 部屋に戻ったら、ストーブはガンガン燃えていた。薪ストーブというものは、こんなに良く燃えて、暖かい物だったんだと、改めて気付いたくらいの燃え方だった。




ーーー2/28−−−  時刻合わせ


 外出することは、普段ほとんど無い。あったとしても買い物に行くくらい。つまり、外出する際に、時刻を気にすることは無い。もし必要になれば、ちょっと面倒でも、ポケットからスマホを出して見れば良い。一方自宅では、そこらじゅうに時計があるから、時刻が分からなくなることはない。つまり、外でも内でも、腕時計を着ける必要は無い。にもかかわらず、毎朝必ず腕時計の時刻を合わせる。

 40年以上前に購入した、ダイバーウオッチである。一日に数分遅れるので、定期的に時刻を合わせる必要がある。それを毎日、朝一番に行うと決めている。傍らに置いてある電波時計を見ながら、秒まで厳密に合わせる。その秒針を合わせるのは、簡単である。12時のところに止めておいて、ゼロ秒時が来たら、リューズを押し込んで針をスタートさせれば良い。

 むしろ長針を合わせる方が気を使う。文字盤の目盛に正確に合わせるのは、けっこう難しい。引き出したリューズを回して長針を動かすのだが、この操作が、指先の器用さを求められる、繊細なものなのである。そして、この時計の場合、長針は目盛まで届いていない。だから、長針の延長線を仮想して、それを目盛に合わせることになる。それはいわば、感覚の勝負である。器用さと感覚の呼吸が合わないと、この長針合わせの操作は上手く行かないのである。

 針を動かして、目盛にピタリと合っても、それで終りでは無い。そのままでは、リューズを押し込んだときに、わずかに針が動いてしまうことがある。それを防ぐために、針を合わせた後、リューズを逆方向にわずかに空転させる。そうすれば、押し込み時の針の振れが避けられる。ただし回し過ぎれば、針が動いてしまい、やり直しとなる。

 冒頭に述べたように、腕時計を着用する必要も無い生活である。ましてや、秒単位まで合わせる必要など、まるで無い。にもかかわらず、まるで列車の運転手のように、正確に時計を合わせることに執着する。几帳面と言っても、意味のない几帳面さである。意味のないようなことにこだわる、これも私の性格の一面なのだろうか。